20160219

 

 アイスはコーンよりもカップ派だ。

 

 友人数名とアイスクリーム店へ行ったときのこと、そのお店はコーンとカップの選択制ではなく、コーンの上にアイスクリームを乗せて渡してくれた。私は普通にアイスを食べてゆき、コーンをほとんど食べていない状態でアイスクリームはなくなった。残りすべてのコーンをアイスクリームのないまま食べなければならないのか、と少し落胆しつつコーンを齧った。しかしちらりと隣の友人達を見ると、コーンの中ほどに差し掛かっているにも関わらず、アイスクリームが残っているではないか。まさか店員が私にだけアイスを少なく乗せていたんだろうか。そんなはずはない、と私の心中など知る由もない彼女らの食べる様を盗み見る。なるほど、彼女らは舌でアイスクリームを押し下げながら食べているようだ。器用である。あの食べ方は自分で思い付いたのであろうか、少なくとも私は小学校の先生から教わった記憶などないが。真似してみようかと思ったが時すでに遅し、私の手元にはコーンしか残っていない。喉の渇きを感じながらコーンを食べきった。

 後日、私はまた友人達とアイスクリームを食べていた。女子高生の行動範囲などさして広くなく、同じ店を幾度も訪れるものである。今度こそはうまく食べてやるぞ!と心の中で意気込んで、友人達を横目で見ながらアイスを食べる。難しい。確かに周りと同じようにしているはずなのだ。しかし「舌でアイスクリームを押す」という行為を意識して行うにはどうしても違和感がある。舌をちろちろと出している様の、なんと滑稽なことか。友人達はさも当たり前のようにアイスクリームとコーンをバランスよく食べている。違和感などない。諦めた私はまたパサパサとしたコーンだけを最後に食べる羽目になった。

 帰り道、私は友人に訊ねた。なぜそのように上手く食べることができるのか、コツでもあるのか、と。予想通り友人の答えはこうだ。「そんなの簡単だよ、普通に食べているだけ。」

 

 わたしは友人達が「普通に」していることを普通には出来ないことが多い。例えば、人と会話をする時の目線は、喋る速さは、手の動きは、意識をした途端全てが崩れてゆく。普通とはなんなのか。分からないわたしは周りを見渡し真似をする。だから返事が、行動が、人より一瞬遅れることがある。一瞬、1度瞬きをする間でもその差が自然と不自然を分断する。自然に見えていても自然ではない。ひとが無意識にできることを意識しないとできないなら、いくら似ていてもそれは自然ではない。

 私はいつまでたってもコーンに乗ったアイスクリームを普通に食べることはできないのだ。

20歳

『少女七竃と七人の可愛そうな大人』を読みました。言葉選びがとても素敵で繊細な物語でした。

 

美しいかんばせをもった少女七竃は、自分と同じ美しいかんばせをもった少年雪風と2人だけの閉鎖的な世界にいた。しかしその世界は、大人によって、また時間の流れによって綻びが生じてくる。

 

完成された少女が少女をやめるお話。

 

「少女」ってなんだろう、と、しばしば考える。

それは、優しく清らかで無邪気に笑う、純粋で純潔、時に残酷、大人しくて元気で快活でイタズラが大好き、甘いものが好きで正直者、泣き虫だけどめげない、まっすぐな瞳を持っていて人を信じることができて、強くて弱い、エトセトラエトセトラ、そんな要素を備えている女の子。あまりに抽象的な存在。そんな女の子、実際にはいない。物語に登場する少女は、私たちの理想で、幻想に過ぎない。もし現実世界に少女を見るなら、もしくは過去の自分を少女と言うなら、それはただ都合のいい要素だけを抜き出して、それを少女と見なしているだけなのです。裏を返せば、誰にでも少女の側面はあるということ。でも、完璧で完成された少女はいない。少なくともわたしは出会わなかった。

 

わたしは明日20歳になります。

今まで少女というまぼろしに夢みて生きていたけど、それももう終わり。でもきっと明日からは、「少女」のそれと同じように「大人」について考えて悩むのだろうなあ。

余命30分の19歳のわたし、倉橋由美子の『聖少女』を読んで過ごします。