舞台に通う意味 推しを追う理由

 OFFICE SHIKA PRODUCE VOL.M「不届者」が幕を閉じた。タイトル通りの、不届き者たちの物語だった。テーマや構成自体はよくあるものではあるけれど、観た人の心に刺さる良い舞台であったように思う。このエントリーはきっと読みにくいと思うので、おすすめの記事を挙げておきます。

aooaao.hatenablog.com

(ブルーさんの書く文章が好きです。)

 

物語全体についての感想

 舞台は松岡充さんが一人で語るところから始まる。松岡さんが主演ということで、舞台鑑賞に慣れていないお客さんに注意事項とかを述べるのかなあと思ったけど違った。「これ、全部台本に書かれたセリフなんです。役者って怖いですよねえ。台本に書かれてさえいればすぐに嘘を吐ける。本人が本当にそう思っているように見えても全部お芝居なんですよ。」確かこんな感じのことを言い、物語は始まった。作中でも、主人公である梅本やそのライバルの秋広は、保険屋の角田が描く台本の通りに自らの復讐劇を進めていく。それが本来の自分の姿であるかのように。さすがは松岡さんという感じで、語りも歌もすごく惹きつけられた。(なんたって顔が良いからな。)

 「不届き」とは、一般に「行き届かないこと。道または法律にそむく行いをすること(広辞苑)」を言う。たしかにこの舞台は、人のあるべき道を外し法を犯す人たちの物語だった。しかしまた、大切な“何か”に届かずして死んだ「不届き者」の物語でもあった。上演台本に書かれていた本作の意図は、「なぜ人を殺してはいけないのか?現代において当たり前に定められている規範について、正しく明確に理解する者はいない。だからこそ誰もが規範を破り不届き者になる可能性がある」というものである。その規範に疑問を持たず、当たり前に現代社会を生きる私たちも、ふとした拍子に不届きを犯してしまうかもしれないのだ。本作で登場する不届き者は、軽薄で、愚かで、残虐である。しかし、あまりにも人間くさい。そんな人間が何人も登場し、死んでいく。穢れのない人は存在しない。仮に存在したとしても、私たちはそれを「無機質」だとか「ロボットのよう」だと表現するだろう。汚いからこそ「人間」であるのかなと、そう思った。

 台本を読んで、台詞が書き換えられている箇所を見つけた。最後の晩餐で、梅本が語るところ。台本では『俺、生まれ変わったら、人の幸せのために生きるって決めてんの。』 と書かれているが、舞台では『不幸を取り除くために生きる』と言っていた。この変更が意味するところ、それは「幸せ」にこだわる必要はないということを示しているのだと思う。今の世の中はハッピーになる方法を求めている。しかし、ハッピーでなければならないのか。幸せか不幸かの二択しかないのか。もちろんそんなことはなく、幸せでなくとも不幸でなければそれで十分なのではないだろうか。

 

登場人物(キャスト)についての感想

松岡充:梅本/新之助(吉宗)

 松岡さん、顔が良すぎた。そんな松岡さんの歌う歌は切実で迫力があった。梅本が役に呑まれていく様が、観ていてすごくドキドキしたし怖かった。特に星を殺した後に荒木さん演じる影山と笑い合う姿はなんとも不気味だった。わたしは影山を通して梅本を見ていたので、梅本については下で書きます。彼は“幸せに届かなかった者”だと考えました。

池田純矢:秋広/宗春

 こちらもまた顔が良い。池田さんの演技は初めて観たけれど、すごいな。なんでもできるんだな。秋広は純粋だと思った。親に捨てられ、愛する人も殺された彼は、“愛に届かなかった者”、かな。 

小沢道成:次雄/頼職

 1回目に観た時、女の人が演じていると思っていた。あとでパンフレットを読んでびっくりしました。確かによく見たら腕の筋肉すごかった。美しかった。

丸尾丸一郎:角田/家継

 丸尾さん、大千秋楽のカテコ挨拶で「どうしてこうなっちゃうんだろう」って涙を流してらっしゃって、いや、これ作ったんあんたやないかーいって思いました。この人は本当に人間を愛しているんだろうなあ。

 角田の台詞で、「保険屋を演じる役者です。」というものがあって、すぐに「嘘です。」と否定するんだけどどっちなんだろうか。もし演じていて、彼も復讐劇の主人公なのだとしたら復讐相手は人間全体なのだと思った。実際の丸尾さんと正反対の人間として作られたのかな。

荒木宏文:影山/左太夫

 先に言います。長いです。

 まずビジュアルですが、台本には「水商売風の男」と表現されていますが、あんな風貌の男は今どきのビジュアル系バンドマンにもなかなかいないでしょ。どうしてそうなった。

 役について。影山(左太夫)はどうしようもなく情けない、愚かで、惨めで、哀れな男だと思う。彼には主体性が感じられなかった。終始彼は友人を助ける相棒であった。しかしわたしは彼を愛おしいとさえ感じる。
 影山を見て、『死に至る病』を思い出した。キルケゴールは、「死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望である、また絶望とは自己の喪失である」と述べている。影山は周囲の人間から度々「死んだ魚の目をしている」と評されていた。しかしわたしの見た影山、つまり梅本と出会った後の影山の目は、わたしには死んだ魚の目には見えなかった。きっと梅本に出会う前は本当に絶望しかなく、死んでいたのであろう。しかし、梅本に出会って彼は過去の希望を持っていたときを思い出した。そしてまた、彼は梅本に対して希望を見るようになったのだ。ただ、これは本当の希望ではなかった。なぜなら、彼は希望を持つ梅本に自分の希望を譲渡してしまっているからである。これこそ自己の喪失である。影山は自分に対する希望など持っていなかった。ずっと最初から死に至る病に侵されていたのである。
 影山は歌がうまく才能のある梅本に憧れた。左太夫は藩主の息子である新之助(吉宗)に夢を見た。しかし、そんな梅本/新之助も「自分は何者にもなれないのか」と嘆き、結局不届き者に成り果て身を滅ぼした。なんて救われない世界なのだろうか。梅本に希望を託し汚れ役を買って出たのに、その梅本は右半身不随、希望なんかあるはずがない。それでも影山は梅本に付いていこうとする。自分一人では動けないから。梅本に執着するしかないから。なぜこんなにも影山は梅本に拘るのか、そんなに魅力がある人間なのかと不思議だった。しかし、影山が梅本に付いていくのは梅本が魅力的だからではなかった。梅本を否定してしまうと、それを信じてついて行っていた自分を否定することになるからだ。彼はどこまでも自分を守ることしか考えていなかった。

 (影山が梅本に執着している、と散々書いたが、梅本もまた影山に依存していた。梅本が行動を起こすときにはいつも影山がそばにいるし、ピンチになったときにはいつも影山の名を呼んでいた。物語の最後に、梅本を中心として死んだ者たちが一列に並び楽しそうに食事をする「最後の晩餐」のシーンがある。ここで影山は梅本の左隣にいる。これは原画においてはヨハネ(またはマグダラのマリア)と言われていて、中心にいるキリストの最も信頼していた人物と言われている。このふたりが再会しなければ誰も不届き者にならずに済んだのかもしれない)
 聖子に「ありがとう」と言って死んだ影山を見ると、やはりわたしは彼を愛したいと思う。彼は梅本に協力しただけで、何の悪意もなかったのだ。浅はかで愚鈍が故に全てが狂ってしまった。その結果を謝ってもそれを受け止める人はどこにもいない。初めて自分のしたことを自分の責任として背負い死んでいった。
 わたしは彼に自分を重ねているのだと思う。夢も希望もあるのか分からない舞台俳優に自分の希望を託している。もちろん彼はわたしにとって魅力的に見えている。しかし例えその人がどんな人であろうとも、明るい未来などないと分かっても、わたしは彼を応援する。彼に付いて行っていた自分自身を否定しないために。梅本に協力し振り回されている見えて自分を守るために生きた影山のように、わたしも自分のために彼に心酔したフリをする。そして自分を否定しないために自分と似て愚かな影山を肯定してしまうのかもしれない。

夢って、やっぱ必要なんすよ。(省略)もう三十こえた俺が言うのも恥ずかしいけど、幾つになっても、どんなに可能性が低くても、夢を目指すべきなんです。

 これを三十過ぎた舞台俳優に言わせるの、なかなかになかなかですよね。聞いていて苦しくなった。

 だから、“影山は夢に届かなかった者”であるのかな。

 

 以上が『不届者』を見て考えたことでした。わたしはこれからも、現実世界に疲れたら舞台の上にある虚構の世界を見て元気をもらうし、夢を持っている人を応援したいと思う。