20170403

 

わたしは自分の意見を持たない子供だった。

幼稚園の頃の将来の夢は図書館司書だった。なぜなら母親が図書館司書は良い職業だって言っていたから。でも幼稚園の年長さんの時、将来の夢を絵に描いてみましょうって言われて困ったことがあった。図書館司書なんて何をする人か知らないのに絵に表せるわけないからだ。だからわたしは隣の子がケーキ屋さんの絵を描いてるのを見て、真似して描いて、「将来の夢はケーキ屋さんです」って言った。
小学生の頃の夢は公務員。これも母親が公務員はいいぞって言っていたから。そしてまた困ったことがあった。卒業文集に載せるから将来の夢について作文を書きなさいっていう良くあるやつ。ここでもわたしは公務員が何をする人かも知らなくて、なんか安定した職業だってことは母が言っていたけれど、安定した職業の意味がそもそも分からなかった。わたしの周りはキラキラした夢を持っている子が多くて、希望に満ちた文を書いていた。それが求められている文章なんだなって思った。だからわたしの卒業文集には「将来の夢はパティシエです」って書かれている。

小学生の時に流行ったドラマに、花より男子野ブタをプロデュース・ごくせんなどがある。そのどれもにはイケメンと呼ばれる俳優が複数人いて、クラスでは誰が1番好きかなんて話題で盛り上がった。でもわたしには分からなかった。誰がイケメンなのかが。だから多数派の意見に従っていた。すなわち、亀梨と赤西の顔が見分けられない状態で「亀梨かっこいい」と言っていた。それが正解だと分かったから。当時のわたしにとって正解とはみんなと同じってことだった。そして、それが正解だと分かったら、本当に亀梨の方が格好良く見えた。

間違えることが何よりも嫌いだった。今もだけど。正解を示してほしい。そうすれば、何も迷うことなく進んでいけるのに。


閑話休題

 

どの人をイケメンだと思うか、好きだと感じるかって主観でしかない。正解なんてない。そう気付いたのはいつだったか。いや、知っていたけどそれでも正解を求めていたのか。
わたしは今、好きな俳優がいる。周りにその俳優を好きな人はいないし、なんなら名前を言っても誰それ?となると思う。ちゃんと、自分の意思で、その人をかっこいいと思い、応援したいと思った。これは昔なら考えられなかったことだ。進歩。

好きな人のことを好きだって堂々と言えるってとても幸せなことだと思う。そしてそれを手紙で、イベントで、伝えることもできる。
わたしは臆病でプライドばっかり高くて、誰かを好きになってもなかなか好きだって言えなかった。でも今は違う。好きだって周りの人に言いたい、彼に直接伝えたい、叫びたい。わたしは貴方のおかげで幸せだよ。


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っていうまだ書き途中のメモ。久しぶりに推しの舞台を観に行ったら面白くなさすぎて悲しくなったのでメモを最後まで完成させる気力がなくなりました。貴方のおかげで幸せ?違う。貴方のせいで憂鬱です。次は面白いストレートの舞台に出てくださいお願いします。

 

20170318

 

若手俳優についてのグループに入ったらアクセス数が今まで見たことない数になっててびっくりしました。カテゴリ設定してるのでこの記事はそんなに読まれることはないと思うので気軽に書きます。

なんだか最近もやもやするなってだけで大した話ではないんだけど。そもそも大した話ができるとも自分で思ってないけどね。


親友って言葉が苦手です。

ああなるほどね、友達いないんだね、って思われたらもう元も子もないんですけど。友達はいます。むしろわたしはわりと誰とでも分け隔てなく仲良くする方(だと信じてる)ので、友達が少ないわけではありません(たぶん)。でも、親友って呼べる人はほとんどいません。大学に入ってからできた友人の中では0です。
これはわたしが友人たちを切り捨ててるわけではなくて、友人にはそれぞれ1番仲のいい友人(いわゆる親友みたいなの)がいます。TwitterとかInstagramとかで、「○○と遊んだー!〇〇といるのが一番楽しいー😆💓」みたいな投稿よく見るじゃないですか。
でもわたしはその〇〇に当てはまったことってないんですよね。その投稿を見る度に、(ああ、この子は友人関係に順位付けるタイプなんだ。そんでわたしはこの子の中で2番手以下なんだ。)って思います。それからはその投稿をした子と会う時は、(今この子はわたしと一緒にいるけど一番楽しいわけじゃないんだな。〇〇ちゃんと遊ぶよりは劣ってる時間を過ごしてるんだな。)って思います。卑屈だから。ひねくれてるからね。

わたしは誰の一番にもなれないんだな、悲しいなって話がしたいわけではないです。断じて。
ただ、「一番」って言うとそれ以下の存在を匂わせてしまうじゃないですか。この子が一番でお前らはそれ以下だぞって。それってどうなのかなって。選ばれた側は嬉しいけど、選ばれなかった側のことも考えて欲しいよねえ。わざとやってんならいいけど無意識だったらタチ悪いわー。

 

 

新規は古参に勝てないのか

 

 

何かしらのオタクをやっていると、新規・新参・古参・古株etc.のような単語を聞くと思います。そして新規と古参の言い争いがよく起こってますよね。既に多くの議論がなされてるのでわたしなんかが取り立てて語ることもないんですけど。最近よく考えちゃうので吐き出し口に。

 

わたしは元々2次元オタクだったんですけど、最近3次元の舞台俳優にハマってしまって、いわゆる「新規」の立場でモノを考えるようになりました。

 

 

いや~~~~~しんどい

もう、めっちゃしんどい

タイトルの新規は古参に勝てないのかって、結論から言ってしまうと勝てないとわたしは思ってます。特に舞台俳優界隈は。

2次元の場合はまだ対抗できた。漫画原作のアニメにハマっても、原作揃えて読んだら"ニワカ"ではなくなるし、原作厨ともある程度は会話できるじゃないですか。無機物だし、時間が経っても漫画は漫画として変わらないまま存在するから。たま~にweb漫画が元になったアニメ(WORKING!!!とか)だとサイトから消された話とかあって新規には分からない設定とかあるんだけど、そういうのは例外として。

 

でも3次元はそうはいかないんですよ。俳優って当たり前だけど歳とるじゃないですか。10年前の推しにわたしは会えない。でも10年前に推しを応援してた人(古参)は会ってる。その当時の推しの支えになってる。

ドラマや映画ならDVDを見れば当時のオタクとまあだいたい同じ量の情報は得られる。でも舞台だと?ライヴだと?イベントだと? DVD化されたとしてもそれは一公演だけで、ドラマと違って公演ごとに違った演出やハプニングがあって、でもそれはDVDでは知ることはできない。実際に観に行かないと分からないことがたくさんある。古参と新規では推しに対して知ってる情報量が違いすぎる。推しと過ごした時間とか経験とか、全然敵わないんだ~~~

 

ただただ悲しいし悔しいです。だからわたしはこれからは、推しの舞台はできる限り見に行くしお金も落とす。今の推しは今しか見れないから。

 

新規と古参の話をしてきたけど、結局新規でも古参でもその人の人間性で仲良くできたりできなかったりですよね。わたしはどうしても比べちゃって劣等感抱いてしまうから同厨の古参の方とは仲良くなれませんが。

 

どんどん言ってることにまとまりがなくなっているのでやめます。ここまで読んでくださってありがとうございました。

最後は阿久津愼太郎くんの名言で締めようと思います。

 

『新規がいなけりゃ、先がない。古参がいなけりゃ、今はない。』

 

 

20160219

 

 アイスはコーンよりもカップ派だ。

 

 友人数名とアイスクリーム店へ行ったときのこと、そのお店はコーンとカップの選択制ではなく、コーンの上にアイスクリームを乗せて渡してくれた。私は普通にアイスを食べてゆき、コーンをほとんど食べていない状態でアイスクリームはなくなった。残りすべてのコーンをアイスクリームのないまま食べなければならないのか、と少し落胆しつつコーンを齧った。しかしちらりと隣の友人達を見ると、コーンの中ほどに差し掛かっているにも関わらず、アイスクリームが残っているではないか。まさか店員が私にだけアイスを少なく乗せていたんだろうか。そんなはずはない、と私の心中など知る由もない彼女らの食べる様を盗み見る。なるほど、彼女らは舌でアイスクリームを押し下げながら食べているようだ。器用である。あの食べ方は自分で思い付いたのであろうか、少なくとも私は小学校の先生から教わった記憶などないが。真似してみようかと思ったが時すでに遅し、私の手元にはコーンしか残っていない。喉の渇きを感じながらコーンを食べきった。

 後日、私はまた友人達とアイスクリームを食べていた。女子高生の行動範囲などさして広くなく、同じ店を幾度も訪れるものである。今度こそはうまく食べてやるぞ!と心の中で意気込んで、友人達を横目で見ながらアイスを食べる。難しい。確かに周りと同じようにしているはずなのだ。しかし「舌でアイスクリームを押す」という行為を意識して行うにはどうしても違和感がある。舌をちろちろと出している様の、なんと滑稽なことか。友人達はさも当たり前のようにアイスクリームとコーンをバランスよく食べている。違和感などない。諦めた私はまたパサパサとしたコーンだけを最後に食べる羽目になった。

 帰り道、私は友人に訊ねた。なぜそのように上手く食べることができるのか、コツでもあるのか、と。予想通り友人の答えはこうだ。「そんなの簡単だよ、普通に食べているだけ。」

 

 わたしは友人達が「普通に」していることを普通には出来ないことが多い。例えば、人と会話をする時の目線は、喋る速さは、手の動きは、意識をした途端全てが崩れてゆく。普通とはなんなのか。分からないわたしは周りを見渡し真似をする。だから返事が、行動が、人より一瞬遅れることがある。一瞬、1度瞬きをする間でもその差が自然と不自然を分断する。自然に見えていても自然ではない。ひとが無意識にできることを意識しないとできないなら、いくら似ていてもそれは自然ではない。

 私はいつまでたってもコーンに乗ったアイスクリームを普通に食べることはできないのだ。

20歳

『少女七竃と七人の可愛そうな大人』を読みました。言葉選びがとても素敵で繊細な物語でした。

 

美しいかんばせをもった少女七竃は、自分と同じ美しいかんばせをもった少年雪風と2人だけの閉鎖的な世界にいた。しかしその世界は、大人によって、また時間の流れによって綻びが生じてくる。

 

完成された少女が少女をやめるお話。

 

「少女」ってなんだろう、と、しばしば考える。

それは、優しく清らかで無邪気に笑う、純粋で純潔、時に残酷、大人しくて元気で快活でイタズラが大好き、甘いものが好きで正直者、泣き虫だけどめげない、まっすぐな瞳を持っていて人を信じることができて、強くて弱い、エトセトラエトセトラ、そんな要素を備えている女の子。あまりに抽象的な存在。そんな女の子、実際にはいない。物語に登場する少女は、私たちの理想で、幻想に過ぎない。もし現実世界に少女を見るなら、もしくは過去の自分を少女と言うなら、それはただ都合のいい要素だけを抜き出して、それを少女と見なしているだけなのです。裏を返せば、誰にでも少女の側面はあるということ。でも、完璧で完成された少女はいない。少なくともわたしは出会わなかった。

 

わたしは明日20歳になります。

今まで少女というまぼろしに夢みて生きていたけど、それももう終わり。でもきっと明日からは、「少女」のそれと同じように「大人」について考えて悩むのだろうなあ。

余命30分の19歳のわたし、倉橋由美子の『聖少女』を読んで過ごします。