20171204

 

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久しぶりの更新です。もう12月か…。

舞台「関数ドミノ」を観た感想を書きたいと言い続けてたのですが、最後まで書ききる気力もなく下書きにあります。いつか上げたいなあ。

あと、「Jの総て」を読みました。中村明日美子さんの絵柄も世界観も大好きです。ほろほろ泣いた。

www.sukima.me

こちらのサイトで12月8日まで無料で読めるので是非。

 

この記事ではJの総ての宣伝がしたかっただけなので、もう目的は達成されました。

ここから書くことはただの日記です。駄文です。この先を読むよりJの総てを読む方が確実に有益です。よろしくお願いします。

 

 

憂鬱です(唐突)

卒論の研究内容を決めなきゃいけないのに、なかなかうまくいきません。まわりは結構決まってるから余計焦る。

それと最近はまわりがインターンに行き始めてて、真剣に自己分析とかもしてて、なんだかなあという気持ち。だからといって自分もインターンに行こうという気にはなれないし。

わたしはまわりの環境には恵まれてて、友人も良い子たちばかりです。なんだけどそれがストレスになってる。劣等感。罪悪感。偽って接しているつもりはないし、わたしはわたしのやりたいように自由に喋って動いてるのに、なんか周りの評価と自分が釣り合ってない気がして悲しい。悲しいというか、怖い?わたしはそんな高尚な人間じゃねーし面白くねーしただの気持ち悪いオタクで厨二病でクズなんだぜって叫びたい。いっそ幻滅してくれ。

〈外〉があるから〈内〉があるように、〈他者〉が存在しないと〈自己〉なんてものは存在できないのだみたいなことを書いている本があった気がする。自分っていうのは他者とか環境にかこまれて存在している。〈わたし〉という人物は、他者の見る〈わたし〉として世界に在るのであって、わたしの見る〈わたし〉は、わたしのなかでしか生きてないんだなって。でもわたしの世界においては、わたしの知る〈わたし〉しか存在してないわけで。他者から見たわたしとの差異が大きすぎると、しんどい。とか考えながらジョハリの窓を思い出したけど、ちょっと違うよね。わたしは他者が思っている〈わたし〉を受け入れることはできない。だって、そんなん自分じゃないもん。

なんか意味のわからない文章で申し訳ない(ここまで読んでる人いないか。)

 

とりあえず、生きてて申し訳ないなって思うことが多いので、反省文の提出先を指定して欲しいです。提出できたらきっと少しは楽になれるのになあ。

舞台に通う意味 推しを追う理由

 OFFICE SHIKA PRODUCE VOL.M「不届者」が幕を閉じた。タイトル通りの、不届き者たちの物語だった。テーマや構成自体はよくあるものではあるけれど、観た人の心に刺さる良い舞台であったように思う。このエントリーはきっと読みにくいと思うので、おすすめの記事を挙げておきます。

aooaao.hatenablog.com

(ブルーさんの書く文章が好きです。)

 

物語全体についての感想

 舞台は松岡充さんが一人で語るところから始まる。松岡さんが主演ということで、舞台鑑賞に慣れていないお客さんに注意事項とかを述べるのかなあと思ったけど違った。「これ、全部台本に書かれたセリフなんです。役者って怖いですよねえ。台本に書かれてさえいればすぐに嘘を吐ける。本人が本当にそう思っているように見えても全部お芝居なんですよ。」確かこんな感じのことを言い、物語は始まった。作中でも、主人公である梅本やそのライバルの秋広は、保険屋の角田が描く台本の通りに自らの復讐劇を進めていく。それが本来の自分の姿であるかのように。さすがは松岡さんという感じで、語りも歌もすごく惹きつけられた。(なんたって顔が良いからな。)

 「不届き」とは、一般に「行き届かないこと。道または法律にそむく行いをすること(広辞苑)」を言う。たしかにこの舞台は、人のあるべき道を外し法を犯す人たちの物語だった。しかしまた、大切な“何か”に届かずして死んだ「不届き者」の物語でもあった。上演台本に書かれていた本作の意図は、「なぜ人を殺してはいけないのか?現代において当たり前に定められている規範について、正しく明確に理解する者はいない。だからこそ誰もが規範を破り不届き者になる可能性がある」というものである。その規範に疑問を持たず、当たり前に現代社会を生きる私たちも、ふとした拍子に不届きを犯してしまうかもしれないのだ。本作で登場する不届き者は、軽薄で、愚かで、残虐である。しかし、あまりにも人間くさい。そんな人間が何人も登場し、死んでいく。穢れのない人は存在しない。仮に存在したとしても、私たちはそれを「無機質」だとか「ロボットのよう」だと表現するだろう。汚いからこそ「人間」であるのかなと、そう思った。

 台本を読んで、台詞が書き換えられている箇所を見つけた。最後の晩餐で、梅本が語るところ。台本では『俺、生まれ変わったら、人の幸せのために生きるって決めてんの。』 と書かれているが、舞台では『不幸を取り除くために生きる』と言っていた。この変更が意味するところ、それは「幸せ」にこだわる必要はないということを示しているのだと思う。今の世の中はハッピーになる方法を求めている。しかし、ハッピーでなければならないのか。幸せか不幸かの二択しかないのか。もちろんそんなことはなく、幸せでなくとも不幸でなければそれで十分なのではないだろうか。

 

登場人物(キャスト)についての感想

松岡充:梅本/新之助(吉宗)

 松岡さん、顔が良すぎた。そんな松岡さんの歌う歌は切実で迫力があった。梅本が役に呑まれていく様が、観ていてすごくドキドキしたし怖かった。特に星を殺した後に荒木さん演じる影山と笑い合う姿はなんとも不気味だった。わたしは影山を通して梅本を見ていたので、梅本については下で書きます。彼は“幸せに届かなかった者”だと考えました。

池田純矢:秋広/宗春

 こちらもまた顔が良い。池田さんの演技は初めて観たけれど、すごいな。なんでもできるんだな。秋広は純粋だと思った。親に捨てられ、愛する人も殺された彼は、“愛に届かなかった者”、かな。 

小沢道成:次雄/頼職

 1回目に観た時、女の人が演じていると思っていた。あとでパンフレットを読んでびっくりしました。確かによく見たら腕の筋肉すごかった。美しかった。

丸尾丸一郎:角田/家継

 丸尾さん、大千秋楽のカテコ挨拶で「どうしてこうなっちゃうんだろう」って涙を流してらっしゃって、いや、これ作ったんあんたやないかーいって思いました。この人は本当に人間を愛しているんだろうなあ。

 角田の台詞で、「保険屋を演じる役者です。」というものがあって、すぐに「嘘です。」と否定するんだけどどっちなんだろうか。もし演じていて、彼も復讐劇の主人公なのだとしたら復讐相手は人間全体なのだと思った。実際の丸尾さんと正反対の人間として作られたのかな。

荒木宏文:影山/左太夫

 先に言います。長いです。

 まずビジュアルですが、台本には「水商売風の男」と表現されていますが、あんな風貌の男は今どきのビジュアル系バンドマンにもなかなかいないでしょ。どうしてそうなった。

 役について。影山(左太夫)はどうしようもなく情けない、愚かで、惨めで、哀れな男だと思う。彼には主体性が感じられなかった。終始彼は友人を助ける相棒であった。しかしわたしは彼を愛おしいとさえ感じる。
 影山を見て、『死に至る病』を思い出した。キルケゴールは、「死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望である、また絶望とは自己の喪失である」と述べている。影山は周囲の人間から度々「死んだ魚の目をしている」と評されていた。しかしわたしの見た影山、つまり梅本と出会った後の影山の目は、わたしには死んだ魚の目には見えなかった。きっと梅本に出会う前は本当に絶望しかなく、死んでいたのであろう。しかし、梅本に出会って彼は過去の希望を持っていたときを思い出した。そしてまた、彼は梅本に対して希望を見るようになったのだ。ただ、これは本当の希望ではなかった。なぜなら、彼は希望を持つ梅本に自分の希望を譲渡してしまっているからである。これこそ自己の喪失である。影山は自分に対する希望など持っていなかった。ずっと最初から死に至る病に侵されていたのである。
 影山は歌がうまく才能のある梅本に憧れた。左太夫は藩主の息子である新之助(吉宗)に夢を見た。しかし、そんな梅本/新之助も「自分は何者にもなれないのか」と嘆き、結局不届き者に成り果て身を滅ぼした。なんて救われない世界なのだろうか。梅本に希望を託し汚れ役を買って出たのに、その梅本は右半身不随、希望なんかあるはずがない。それでも影山は梅本に付いていこうとする。自分一人では動けないから。梅本に執着するしかないから。なぜこんなにも影山は梅本に拘るのか、そんなに魅力がある人間なのかと不思議だった。しかし、影山が梅本に付いていくのは梅本が魅力的だからではなかった。梅本を否定してしまうと、それを信じてついて行っていた自分を否定することになるからだ。彼はどこまでも自分を守ることしか考えていなかった。

 (影山が梅本に執着している、と散々書いたが、梅本もまた影山に依存していた。梅本が行動を起こすときにはいつも影山がそばにいるし、ピンチになったときにはいつも影山の名を呼んでいた。物語の最後に、梅本を中心として死んだ者たちが一列に並び楽しそうに食事をする「最後の晩餐」のシーンがある。ここで影山は梅本の左隣にいる。これは原画においてはヨハネ(またはマグダラのマリア)と言われていて、中心にいるキリストの最も信頼していた人物と言われている。このふたりが再会しなければ誰も不届き者にならずに済んだのかもしれない)
 聖子に「ありがとう」と言って死んだ影山を見ると、やはりわたしは彼を愛したいと思う。彼は梅本に協力しただけで、何の悪意もなかったのだ。浅はかで愚鈍が故に全てが狂ってしまった。その結果を謝ってもそれを受け止める人はどこにもいない。初めて自分のしたことを自分の責任として背負い死んでいった。
 わたしは彼に自分を重ねているのだと思う。夢も希望もあるのか分からない舞台俳優に自分の希望を託している。もちろん彼はわたしにとって魅力的に見えている。しかし例えその人がどんな人であろうとも、明るい未来などないと分かっても、わたしは彼を応援する。彼に付いて行っていた自分自身を否定しないために。梅本に協力し振り回されている見えて自分を守るために生きた影山のように、わたしも自分のために彼に心酔したフリをする。そして自分を否定しないために自分と似て愚かな影山を肯定してしまうのかもしれない。

夢って、やっぱ必要なんすよ。(省略)もう三十こえた俺が言うのも恥ずかしいけど、幾つになっても、どんなに可能性が低くても、夢を目指すべきなんです。

 これを三十過ぎた舞台俳優に言わせるの、なかなかになかなかですよね。聞いていて苦しくなった。

 だから、“影山は夢に届かなかった者”であるのかな。

 

 以上が『不届者』を見て考えたことでした。わたしはこれからも、現実世界に疲れたら舞台の上にある虚構の世界を見て元気をもらうし、夢を持っている人を応援したいと思う。

 

推しの炎上から考えたこと

 

お久しぶりです。前回の記事を上げてからブログへのアクセスが4000view増えました。それまで総計で3000とかだったのに。愚痴垢さん効果すげえ。

 

わたしはというと、結局炎上前に取った10月の舞台のチケットは手放さずにいます。でも11月の舞台のチケットは取っていません。もともと取る気だったんですが、予定がうまくあわないので……今までだと無理やり予定こじ開けてたので、やっぱりそれほどの気力はなくなったのかなあという感じです。完全には諦めてないのでもしかしたら行くかもですが。

 

 

それで、炎上(ボヤ騒ぎ?)から約2ヶ月半、冷静になったり感情的になったりしながら色々なことを考えました。推し(Aさん)のことをよく知らなくても、推し事をされている人には読んでほしいなあと思って記事を書きます。(結局わたしはAさんを許してしまっているので、Aさんの炎上が許せない方には不快な気持ちにさせてしまうかもしれませんがご了承ください。)

 

クズバレの何がつらかったのか。

 

裏切られたという気持ちももちろんありました。でも、それは勝手にこっちが夢を見てしまっていただけなのでこっちにも責任があるのかなと思います。俳優の仕事は夢を見させるのではなく芝居をすることだと思ってるので、中の人間の性格にまで口出しするのはね、間違ってます(建前)でも夢を見させようと振る舞ったのはやはり俳優側なので責任取ってほしい(本音)クズバレが許せるか許せないか、俳優の仕事を芝居と捉えているかSNS等の営業も含めて捉えているかが関係するのだと思いました。

推しが実際にクズかどうかって、どうでもいいんですよ。シュレディンガーの猫と同じで、推しがクズかどうかは、箱を開けない限りは分からないのです。つまり、クズバレするまでは、推しがクズかそうでないかはフィフティーフィフティーの状態だということ。その50/50の状態のままであって欲しかった。なんで炎上にこんなにショックを受けたかって、50/50であることを忘れていたからだと考えています。クズであるという可能性が50%あったのに、それを考えないようにしていました。これはわたしのミスです。これからは忘れないようにします。

また今回の炎上では、箱を開けたのがAさん本人であるということが最も残念な点だと思っています。文春に撮られるとかの方が何倍もマシだと。(推しが文春にやられた方ごめんなさい) あとは炎上後の対応ですが、あんなに下手くそな対応をする人はなかなかいないですよね。Aさん、馬鹿すぎる。

 

 

しかし、いちばんつらかったことはそのことではありませんでした。

いちばんつらかったこと、それは推しが叩かれていることです。炎上してすぐは、もっと燃えろと思っていました。炎上のこと何も知らない茶の間がのんきにツイートしてるのを見てイライラしたりもしました。でも、Aさんのお芝居している姿を見て、もういっか、と思えました。炎上があっても、Aさんは変わらず素敵な演技を見せてくれたのです。Aさんがクズだとしても、Aさんの芝居はかっこいいのです。Aさんがクズだとしても、今までわたしがAさんを見て幸せを感じていたという過去は変えられません。Aさんがいたおかげで人生楽しいと思えていたことは、紛れもない事実として存在するのです。だからわたしはAさんに感謝してます。今まで楽しませてくれてありがとうございましたと。そうやってわたしは炎上を克服しようとしました。

それなのに、某掲示板やTwitterでは悪口が絶えない。つらすぎます。面白がって叩いている方は置いといて、クズバレを受けてファンからアンチに転向したという方がどれほどいるのか気になります。クズに騙されて喜んでいた自分が許せないという感じなのでしょうか…。その考えはわたしにはないので……。(自分の今までの行動を正当化したいから防衛機制が働いて推しを許そうとしているのかな、とは思いますが。)ブログやインタビューやアフタートークのことは言われても演技が下手とは(わたしが見る限りでは)言われていないのだけが救いです。実際に推しの演技が上手いのか、叩く方は推しの演技をあまり見たことがないのかは分かりませんが……。でも、だからこそ、演技以外のことばかりをずっと悪く言われるのが悲しいです。人間的にちょっと破綻していることも言葉選びが下手なことも空気が読めないことも認めます(認めます)。でも舞台上の役者としてのAさんはサイコーです。そこ、大事だと思います。

 

話が脱線しまくってますね。最初に冷静になったり感情的になったりして考えたと書きましたが、冷静になれていないのかもしれません。盲目信者は自分がそうであることに気付かないですから。

以上がわたしが炎上を受けて考えたことです。今まで自分の感情を残すためにブログを書いていたので、人に読んでもらうための文章は難しいです。読みにくくてすみません。

 

最後にひとつだけ。Aさんの顔が生理的に無理でなければ、舞台、見に来てください。最初は炎上の件がチラつくと思いますが、最後には忘れられていることを祈ります。

 

 

 

炎上直後の推しの舞台を観た話

 

 

炎上直後、もしくは炎上中?の推しの舞台を観に行きました。そう、ゴーストのやつです。

 

検索避けのために推しの名前は伏せますが、若手俳優のグループを読んでる方はきっと分かると思います。先日も炎上について言及している記事がありましたし。

 

炎上の詳細は省きます。某掲示板の個人スレをみるとよく分かります。

例の女性とどういう関係かも、例のRTやブログをどういう意図で為されているのかも真偽は分からないので深く考えるのはやめました。ソロイベでの彼の言葉(女性と付き合うの無理めんどくさいみたいなことを喋ってた)を信じるとするならば正式に付き合っている彼女ではない(つまりセフレ)かなと思いますが。炎上があった以上ソロイベでの発言を信用するのも馬鹿らしいですが一応推しなのでね。許してね。

ほんと、ソロイベは何もかも100点満点で一生ついて行こうって思ったのになあ。

 

……愚痴は長くなるのでやめます。

 

それで、観に行ってきました。

観る前、モチベは最悪で、チケット売ろうか迷っていました。でもせっかく取ったし、最後に彼の演技を観てから担降りするか決めようと思って観に行きました。

 

劇場に着いて、ソロイベのグッズを身に付けている方が多くて驚きました。みんな炎上のこと知らないんだろうか。知ってて尚推してるんだろうか。とか色々考えました。推しのオタクはおばさまも多くいるので、あまりネットを見ずにまっすぐに表向きの推しだけを見て応援しているのかな、と思います。それはとても幸せなことだろうけど、わたしには真似できないですね。

 

 

幕が上がります。

 

最初の登場シーンで、彼、腰振ってるんですよ。私の頭の中にはやはりあの女がよぎります。下ネタっぽいのほんとにやめてくれ。無理だわ。

 

で、物語が進んでいきます。

 

いや、めっちゃ良い役なんですよ。実質主人公だった。そして殺陣、めっちゃかっこいい。髪の毛さらさらだし。やばい。めっちゃかっこいい。ラストシーン、悲痛な声がすごくつらくて。めっちゃかっこいい。

 

はい。そうなんですよ。

かっこいいと思ってしまった。

表情も、声の出し方も、仕草も。

やっぱり彼の演技が好きだなぁと思ってしまった。

飛び抜けて顔がいいわけでも、演技がうまいわけでもないのに、好きだと思ってしまった。

それが悔しくて、でもなんだか嬉しくて、少し泣いてしまいました。

 

これからわたしは彼を推し続けるのか、まだ分かりません。でも、内面は置いといて、彼の演技を嫌いになるまでは彼の出演する舞台を観にいきたいと思っています。次の舞台のチケットももう取ってしまっているので、手放そうかと思っていたけどやめておくことにします。

 

ブログやTwitterのフォローは外したけどね。笑

ファンクラブは抜けないかな。

 

 

 

ここまでで900字〜めっちゃ削りました。

 

以下、舞台の感想です。

 

内容については多くの方が述べてらっしゃるので詳しくは言いませんが、なんか、話の構成が雑だなあと思いました。前半くそつまんなくて、でも後半は推しがかっこよかったので楽しかったです。ギャグは面白くなかったり面白かったりでした。

 

良かった、楽しかった部分だけを言うと、

 

味方さん、初めて演技を観ました。好きです。味方さんのファンの方のブログが大好きで、なので味方さんもすっごい素敵な方なんだろうな〜と思ってたのですが、ほんとに素敵な方だった。滑舌いいな!推しにわけてほしいです。それと、「あなたの、あなたの、あなたの味方!」笑いました。軽率にわたしも味方さんの味方になりたいと思ってしまった。味方さんの捨て紙?を拾えて、推しのと交換探すか迷いましたが、今回の味方さん素敵だったので記念に取っておくことにしました。

 

ズクダンズンブングンゲーム

 

田中さん、なんだかんだテニミュやら青春鉄道やらでお見かけしていますが、股下97cmもあるんですね。蹴りが美しかったです。あと、声が好きです。

 

三浦くん、最後のキャスト紹介のときのハイキック?飛び蹴り?がめちゃくちゃ美しくてびっくりしました。

 

荒木さん、霊媒師のほうの役、びっくりしました。普通に笑った。桃仙、めちゃくちゃ好きです。悪役かっこいい。とても幼くてまっすぐな感情を表現するのがうまいんですよね。客降りのとき荒木さんは舞台上にいるんたけど例の紙を何枚かまとめて投げたらバラバラにならずに固まって飛んでいっちゃって、やばい!って顔してみんなで分けてねってジャスチャーしながら言っててかわいかったです。

 

ふろむえぐざいる!からの、ふろむでぃーぼーいず!

 

高橋さん、顔がかっこいい。

 

以上です。

 

 

推しか今まで隠してたけど、もうバラしてしまったのでこれからは露骨に宣伝していこうかな。

 

それでは、みなさま、良きオタクライフをお過ごしください。

 

バランス理論から考える同担拒否について

 

 ただ同担拒否はしんどいという話。

 

先日、大学の社会心理学の授業でバランス理論というものを習いました。その理論をオタク心理にあてはめるとしんどいなあと思ったのでまとめてみました。わりと当たり前のことを言っています。

 

人間はどんなことでもバランスの取れた均衡状態を好みます。それは対人関係にもあてはまって、不均衡な状態に陥るとそれを解消しバランスの取れた状態へ持っていこうします。それがバランス理論です。

そのバランスの取れた状態について説明しますね。
まず、自分・他者・対象がいます。それで下の図のように、自分から対象、他者から対象、自分から他者に矢印が向いていて、好きなら+、嫌いなら-です。

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そうしたら記号が3つ存在しますよね。その掛け算が+になれば均衡状態、-になれば不均衡状態というわけです。
例えば自分と友人が同じ人を嫌いな場合、-が2つで+が1つなので全体だと+で均衡状態です。矢印3つとも+ならもちろん全体も+です。不均衡の状態というのは-が1つ、または3つの場合です。

それで、対象を推し、他者を同担に置き換えて考えてみました。同担拒否の人のバランスはこのようになっています。

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+が2つ、-が1つなので全体では-、不均衡状態です。つまり同担拒否している状態というのは自分にとって負担になっているということです。当たり前ですね。

 

それで、この不均衡状態をなんとかして均衡状態へ戻そうという働きかけが必要になります。このとき同担拒否は変えられないものとします。そうすると、均衡状態へするには2通りしかありません。1つ目は同担が担降りするように働きかけること、2つ目は自分が担降りすることです。そうすると、+が1つ、-が2つで均衡状態へなります。

 

しかし、そんなにうまく均衡状態になるわけはありません。

まず同担が担降りすることについてですが、もし担降りされたとしましょう、ふざけんな、ってなりませんか。私はなります。だって、あんなに素敵な推しなのになんで降りられなきゃいけないの!?ばかなの!?ってなるので。ドチャクソわがままなのは承知しております。

次に自分が担降りすることについてです。正直、これが一番可能性があると思います。今はそんなこと考えられないけど、いつかは、降りる時が来るのかな、と。

 

悲しくなってきたのでまとめます。

人は、対人関係において不均衡な状態へ陥ったとき、なんとかして均衡状態へ戻そうという働きが生じます。そして同担拒否の人は同担と推しとの間で不均衡を抱えています。そして、それを解決するには自分が担降りするしかありません。

なので、同担拒否の人は拗らせすぎると自分のこころを守るために推すのをやめてしまうのかなあ、と思います。そして同担とも仲良くしてハッピーな人のほうが長続きしやすいのかな、と思いました。やっぱり推し推し続けるためには自分の精神衛生にも気を遣わなければなりませんね。

 

長々と回りくどくなったけど、同担拒否しんどい、という話でした。おわり。

 

 

さよならさんかく

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「さよならさんかくまたきてしかく!」

 


開けっ放しの窓から入り込んで来た声で目が覚める。
15時20分。どうやら下校途中らしい小学生は、学校で習ったのであろう歌を声を揃えて口ずさむ。
白い天井をぼんやりと眺めていたら、歌も終わりを迎えたようだった。
ひかるはおやじのハゲ頭!小学生は楽しそうに叫んだ。


さよならさんかく、また来てしかく

 

確か連想ゲームの歌だった。
また最初から歌い出したらしい声はだんだんと遠ざかり、蝉の声に掻き消された。


悲しい歌。"しかく"はまた来ることを望まれているけど、"さんかく"は一方的な別れを告げられる。さんかくと再び会うことはないのてある。

 

 

夏が来た。
暑い夏。
さんかくがいなくなってから3度目の夏。

 

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続かない\(°ω° )/

20170503

 

自殺するのにもエネルギーが必要という話を聞いた。ただただ憂鬱で沈んでいる時は自殺という行動を起こす元気もないらしい。逆に、ちょっと元気が出てきた時は勢いで死んじゃえたりするもんらしい。春先に自殺が増えるのは新年度だからって理由だけではないのかもね。春はぽかぽかしててちょっと元気になれます。花粉に殺されそうではあるけど。

 

まあ、今回の話とはあんまり関係ないです。今は、そんなに死にたいとは思わないし。

 

そう、今は死にたいという感情がないんです。
今日はわたしの話をします。(※いつも自分の話しかしてない)

 

わたしは昔、とても死にたかった。自殺願望というよりは、希死念慮、ですかね。生きてちゃ駄目だと思ってました。この思いが強かったのは、18歳の時。浪人生でした。
わたしは予備校の寮に入っていて、行動範囲は予備校の校舎と寮(隣同士)だけでした。テレビはもちろんありません。毎日毎日することといえば、勉強、もしてるけど、だいたいはネットサーフィンでした。ポケットWiFi持ってたのにめっちゃ早く通信制限来てたの懐かしい。
浪人生って人権がないんですよね。最終学歴は高校の、ただのニート。入れる大学も決まってない。はたから見たらモラトリアム貪ってる奴でしかない。自分で考えてもモラトリアム貪ってる奴でしかなかったけど。笑

 

それで、久しぶりに浪人時代の日記を見返して、ああこういう感情だったなあと思い出したのでブログにも書こうかなあと。
1番印象に残ってるのは、

 

もし〇〇大学落ちて滑り止めの私立とかに通うことになっても、なんだかんだ友達作って"良い人たちに出会えたからこの大学入って良かった"とか言うんだろうなあ。でもわたしはそれを許さない。未来の自分へ。志望校落ちたら負け犬だから。防衛機制働かせてんじゃねーよ。大学生活も惰性で過ごしてそれなりに楽しんでるんだろうけど、たまにコレを読んで苦しんでください。(原文ママ)

 

って。こわ。
言い当てられてるし。
それにしても拗らせてるなあ、恥ずかしい。

 


もはや呪いだ。

 

当時のわたしが懸念してた通りの事態にはなってるけど、この日記のおかげで苦しめられます。あれから2年以上経ったけれど何も考えず死ぬのもめんどくさいからだらだらと惰性で生きてます。ごめんなさい。がんばります。すぐに忘れて推し俳優かっこいい〜人生たのし〜とか言い出すけどね。

 


もうそろそろ就活について考えなければなりません。ずっと逃げてたこと。大学進学も嫌なことから逃げてばっかりで1年遅れたんだけど、さすがに就職浪人は笑えないからね。
でも社会に出るのが嫌すぎて大学院に進学しようかなあとも考えてます。院進でも大嫌いな受験勉強しなきゃいけないんだけど。あ〜現実逃避が上手くなるだけで何も成長してない。

 


全然面白くない記事になってしまった。

昔の自分に軽蔑されるような生活を送ってしまっているという話でした。