バランス理論から考える同担拒否について

 

 ただ同担拒否はしんどいという話。

 

先日、大学の社会心理学の授業でバランス理論というものを習いました。その理論をオタク心理にあてはめるとしんどいなあと思ったのでまとめてみました。わりと当たり前のことを言っています。

 

人間はどんなことでもバランスの取れた均衡状態を好みます。それは対人関係にもあてはまって、不均衡な状態に陥るとそれを解消しバランスの取れた状態へ持っていこうします。それがバランス理論です。

そのバランスの取れた状態について説明しますね。
まず、自分・他者・対象がいます。それで下の図のように、自分から対象、他者から対象、自分から他者に矢印が向いていて、好きなら+、嫌いなら-です。

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そうしたら記号が3つ存在しますよね。その掛け算が+になれば均衡状態、-になれば不均衡状態というわけです。
例えば自分と友人が同じ人を嫌いな場合、-が2つで+が1つなので全体だと+で均衡状態です。矢印3つとも+ならもちろん全体も+です。不均衡の状態というのは-が1つ、または3つの場合です。

それで、対象を推し、他者を同担に置き換えて考えてみました。同担拒否の人のバランスはこのようになっています。

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+が2つ、-が1つなので全体では-、不均衡状態です。つまり同担拒否している状態というのは自分にとって負担になっているということです。当たり前ですね。

 

それで、この不均衡状態をなんとかして均衡状態へ戻そうという働きかけが必要になります。このとき同担拒否は変えられないものとします。そうすると、均衡状態へするには2通りしかありません。1つ目は同担が担降りするように働きかけること、2つ目は自分が担降りすることです。そうすると、+が1つ、-が2つで均衡状態へなります。

 

しかし、そんなにうまく均衡状態になるわけはありません。

まず同担が担降りすることについてですが、もし担降りされたとしましょう、ふざけんな、ってなりませんか。私はなります。だって、あんなに素敵な推しなのになんで降りられなきゃいけないの!?ばかなの!?ってなるので。ドチャクソわがままなのは承知しております。

次に自分が担降りすることについてです。正直、これが一番可能性があると思います。今はそんなこと考えられないけど、いつかは、降りる時が来るのかな、と。

 

悲しくなってきたのでまとめます。

人は、対人関係において不均衡な状態へ陥ったとき、なんとかして均衡状態へ戻そうという働きが生じます。そして同担拒否の人は同担と推しとの間で不均衡を抱えています。そして、それを解決するには自分が担降りするしかありません。

なので、同担拒否の人は拗らせすぎると自分のこころを守るために推すのをやめてしまうのかなあ、と思います。そして同担とも仲良くしてハッピーな人のほうが長続きしやすいのかな、と思いました。やっぱり推し推し続けるためには自分の精神衛生にも気を遣わなければなりませんね。

 

長々と回りくどくなったけど、同担拒否しんどい、という話でした。おわり。

 

 

さよならさんかく

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「さよならさんかくまたきてしかく!」

 


開けっ放しの窓から入り込んで来た声で目が覚める。
15時20分。どうやら下校途中らしい小学生は、学校で習ったのであろう歌を声を揃えて口ずさむ。
白い天井をぼんやりと眺めていたら、歌も終わりを迎えたようだった。
ひかるはおやじのハゲ頭!小学生は楽しそうに叫んだ。


さよならさんかく、また来てしかく

 

確か連想ゲームの歌だった。
また最初から歌い出したらしい声はだんだんと遠ざかり、蝉の声に掻き消された。


悲しい歌。"しかく"はまた来ることを望まれているけど、"さんかく"は一方的な別れを告げられる。さんかくと再び会うことはないのてある。

 

 

夏が来た。
暑い夏。
さんかくがいなくなってから3度目の夏。

 

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続かない\(°ω° )/

20170503

 

自殺するのにもエネルギーが必要という話を聞いた。ただただ憂鬱で沈んでいる時は自殺という行動を起こす元気もないらしい。逆に、ちょっと元気が出てきた時は勢いで死んじゃえたりするもんらしい。春先に自殺が増えるのは新年度だからって理由だけではないのかもね。春はぽかぽかしててちょっと元気になれます。花粉に殺されそうではあるけど。

 

まあ、今回の話とはあんまり関係ないです。今は、そんなに死にたいとは思わないし。

 

そう、今は死にたいという感情がないんです。
今日はわたしの話をします。(※いつも自分の話しかしてない)

 

わたしは昔、とても死にたかった。自殺願望というよりは、希死念慮、ですかね。生きてちゃ駄目だと思ってました。この思いが強かったのは、18歳の時。浪人生でした。
わたしは予備校の寮に入っていて、行動範囲は予備校の校舎と寮(隣同士)だけでした。テレビはもちろんありません。毎日毎日することといえば、勉強、もしてるけど、だいたいはネットサーフィンでした。ポケットWiFi持ってたのにめっちゃ早く通信制限来てたの懐かしい。
浪人生って人権がないんですよね。最終学歴は高校の、ただのニート。入れる大学も決まってない。はたから見たらモラトリアム貪ってる奴でしかない。自分で考えてもモラトリアム貪ってる奴でしかなかったけど。笑

 

それで、久しぶりに浪人時代の日記を見返して、ああこういう感情だったなあと思い出したのでブログにも書こうかなあと。
1番印象に残ってるのは、

 

もし〇〇大学落ちて滑り止めの私立とかに通うことになっても、なんだかんだ友達作って"良い人たちに出会えたからこの大学入って良かった"とか言うんだろうなあ。でもわたしはそれを許さない。未来の自分へ。志望校落ちたら負け犬だから。防衛機制働かせてんじゃねーよ。大学生活も惰性で過ごしてそれなりに楽しんでるんだろうけど、たまにコレを読んで苦しんでください。(原文ママ)

 

って。こわ。
言い当てられてるし。
それにしても拗らせてるなあ、恥ずかしい。

 


もはや呪いだ。

 

当時のわたしが懸念してた通りの事態にはなってるけど、この日記のおかげで苦しめられます。あれから2年以上経ったけれど何も考えず死ぬのもめんどくさいからだらだらと惰性で生きてます。ごめんなさい。がんばります。すぐに忘れて推し俳優かっこいい〜人生たのし〜とか言い出すけどね。

 


もうそろそろ就活について考えなければなりません。ずっと逃げてたこと。大学進学も嫌なことから逃げてばっかりで1年遅れたんだけど、さすがに就職浪人は笑えないからね。
でも社会に出るのが嫌すぎて大学院に進学しようかなあとも考えてます。院進でも大嫌いな受験勉強しなきゃいけないんだけど。あ〜現実逃避が上手くなるだけで何も成長してない。

 


全然面白くない記事になってしまった。

昔の自分に軽蔑されるような生活を送ってしまっているという話でした。

20170403

 

わたしは自分の意見を持たない子供だった。

幼稚園の頃の将来の夢は図書館司書だった。なぜなら母親が図書館司書は良い職業だって言っていたから。でも幼稚園の年長さんの時、将来の夢を絵に描いてみましょうって言われて困ったことがあった。図書館司書なんて何をする人か知らないのに絵に表せるわけないからだ。だからわたしは隣の子がケーキ屋さんの絵を描いてるのを見て、真似して描いて、「将来の夢はケーキ屋さんです」って言った。
小学生の頃の夢は公務員。これも母親が公務員はいいぞって言っていたから。そしてまた困ったことがあった。卒業文集に載せるから将来の夢について作文を書きなさいっていう良くあるやつ。ここでもわたしは公務員が何をする人かも知らなくて、なんか安定した職業だってことは母が言っていたけれど、安定した職業の意味がそもそも分からなかった。わたしの周りはキラキラした夢を持っている子が多くて、希望に満ちた文を書いていた。それが求められている文章なんだなって思った。だからわたしの卒業文集には「将来の夢はパティシエです」って書かれている。

小学生の時に流行ったドラマに、花より男子野ブタをプロデュース・ごくせんなどがある。そのどれもにはイケメンと呼ばれる俳優が複数人いて、クラスでは誰が1番好きかなんて話題で盛り上がった。でもわたしには分からなかった。誰がイケメンなのかが。だから多数派の意見に従っていた。すなわち、亀梨と赤西の顔が見分けられない状態で「亀梨かっこいい」と言っていた。それが正解だと分かったから。当時のわたしにとって正解とはみんなと同じってことだった。そして、それが正解だと分かったら、本当に亀梨の方が格好良く見えた。

間違えることが何よりも嫌いだった。今もだけど。正解を示してほしい。そうすれば、何も迷うことなく進んでいけるのに。


閑話休題

 

どの人をイケメンだと思うか、好きだと感じるかって主観でしかない。正解なんてない。そう気付いたのはいつだったか。いや、知っていたけどそれでも正解を求めていたのか。
わたしは今、好きな俳優がいる。周りにその俳優を好きな人はいないし、なんなら名前を言っても誰それ?となると思う。ちゃんと、自分の意思で、その人をかっこいいと思い、応援したいと思った。これは昔なら考えられなかったことだ。進歩。

好きな人のことを好きだって堂々と言えるってとても幸せなことだと思う。そしてそれを手紙で、イベントで、伝えることもできる。
わたしは臆病でプライドばっかり高くて、誰かを好きになってもなかなか好きだって言えなかった。でも今は違う。好きだって周りの人に言いたい、彼に直接伝えたい、叫びたい。わたしは貴方のおかげで幸せだよ。


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っていうまだ書き途中のメモ。久しぶりに推しの舞台を観に行ったら面白くなさすぎて悲しくなったのでメモを最後まで完成させる気力がなくなりました。貴方のおかげで幸せ?違う。貴方のせいで憂鬱です。次は面白いストレートの舞台に出てくださいお願いします。

 

20170318

 

若手俳優についてのグループに入ったらアクセス数が今まで見たことない数になっててびっくりしました。カテゴリ設定してるのでこの記事はそんなに読まれることはないと思うので気軽に書きます。

なんだか最近もやもやするなってだけで大した話ではないんだけど。そもそも大した話ができるとも自分で思ってないけどね。


親友って言葉が苦手です。

ああなるほどね、友達いないんだね、って思われたらもう元も子もないんですけど。友達はいます。むしろわたしはわりと誰とでも分け隔てなく仲良くする方(だと信じてる)ので、友達が少ないわけではありません(たぶん)。でも、親友って呼べる人はほとんどいません。大学に入ってからできた友人の中では0です。
これはわたしが友人たちを切り捨ててるわけではなくて、友人にはそれぞれ1番仲のいい友人(いわゆる親友みたいなの)がいます。TwitterとかInstagramとかで、「○○と遊んだー!〇〇といるのが一番楽しいー😆💓」みたいな投稿よく見るじゃないですか。
でもわたしはその〇〇に当てはまったことってないんですよね。その投稿を見る度に、(ああ、この子は友人関係に順位付けるタイプなんだ。そんでわたしはこの子の中で2番手以下なんだ。)って思います。それからはその投稿をした子と会う時は、(今この子はわたしと一緒にいるけど一番楽しいわけじゃないんだな。〇〇ちゃんと遊ぶよりは劣ってる時間を過ごしてるんだな。)って思います。卑屈だから。ひねくれてるからね。

わたしは誰の一番にもなれないんだな、悲しいなって話がしたいわけではないです。断じて。
ただ、「一番」って言うとそれ以下の存在を匂わせてしまうじゃないですか。この子が一番でお前らはそれ以下だぞって。それってどうなのかなって。選ばれた側は嬉しいけど、選ばれなかった側のことも考えて欲しいよねえ。わざとやってんならいいけど無意識だったらタチ悪いわー。

 

 

新規は古参に勝てないのか

 

 

何かしらのオタクをやっていると、新規・新参・古参・古株etc.のような単語を聞くと思います。そして新規と古参の言い争いがよく起こってますよね。既に多くの議論がなされてるのでわたしなんかが取り立てて語ることもないんですけど。最近よく考えちゃうので吐き出し口に。

 

わたしは元々2次元オタクだったんですけど、最近3次元の舞台俳優にハマってしまって、いわゆる「新規」の立場でモノを考えるようになりました。

 

 

いや~~~~~しんどい

もう、めっちゃしんどい

タイトルの新規は古参に勝てないのかって、結論から言ってしまうと勝てないとわたしは思ってます。特に舞台俳優界隈は。

2次元の場合はまだ対抗できた。漫画原作のアニメにハマっても、原作揃えて読んだら"ニワカ"ではなくなるし、原作厨ともある程度は会話できるじゃないですか。無機物だし、時間が経っても漫画は漫画として変わらないまま存在するから。たま~にweb漫画が元になったアニメ(WORKING!!!とか)だとサイトから消された話とかあって新規には分からない設定とかあるんだけど、そういうのは例外として。

 

でも3次元はそうはいかないんですよ。俳優って当たり前だけど歳とるじゃないですか。10年前の推しにわたしは会えない。でも10年前に推しを応援してた人(古参)は会ってる。その当時の推しの支えになってる。

ドラマや映画ならDVDを見れば当時のオタクとまあだいたい同じ量の情報は得られる。でも舞台だと?ライヴだと?イベントだと? DVD化されたとしてもそれは一公演だけで、ドラマと違って公演ごとに違った演出やハプニングがあって、でもそれはDVDでは知ることはできない。実際に観に行かないと分からないことがたくさんある。古参と新規では推しに対して知ってる情報量が違いすぎる。推しと過ごした時間とか経験とか、全然敵わないんだ~~~

 

ただただ悲しいし悔しいです。だからわたしはこれからは、推しの舞台はできる限り見に行くしお金も落とす。今の推しは今しか見れないから。

 

新規と古参の話をしてきたけど、結局新規でも古参でもその人の人間性で仲良くできたりできなかったりですよね。わたしはどうしても比べちゃって劣等感抱いてしまうから同厨の古参の方とは仲良くなれませんが。

 

どんどん言ってることにまとまりがなくなっているのでやめます。ここまで読んでくださってありがとうございました。

最後は阿久津愼太郎くんの名言で締めようと思います。

 

『新規がいなけりゃ、先がない。古参がいなけりゃ、今はない。』

 

 

20160219

 

 アイスはコーンよりもカップ派だ。

 

 友人数名とアイスクリーム店へ行ったときのこと、そのお店はコーンとカップの選択制ではなく、コーンの上にアイスクリームを乗せて渡してくれた。私は普通にアイスを食べてゆき、コーンをほとんど食べていない状態でアイスクリームはなくなった。残りすべてのコーンをアイスクリームのないまま食べなければならないのか、と少し落胆しつつコーンを齧った。しかしちらりと隣の友人達を見ると、コーンの中ほどに差し掛かっているにも関わらず、アイスクリームが残っているではないか。まさか店員が私にだけアイスを少なく乗せていたんだろうか。そんなはずはない、と私の心中など知る由もない彼女らの食べる様を盗み見る。なるほど、彼女らは舌でアイスクリームを押し下げながら食べているようだ。器用である。あの食べ方は自分で思い付いたのであろうか、少なくとも私は小学校の先生から教わった記憶などないが。真似してみようかと思ったが時すでに遅し、私の手元にはコーンしか残っていない。喉の渇きを感じながらコーンを食べきった。

 後日、私はまた友人達とアイスクリームを食べていた。女子高生の行動範囲などさして広くなく、同じ店を幾度も訪れるものである。今度こそはうまく食べてやるぞ!と心の中で意気込んで、友人達を横目で見ながらアイスを食べる。難しい。確かに周りと同じようにしているはずなのだ。しかし「舌でアイスクリームを押す」という行為を意識して行うにはどうしても違和感がある。舌をちろちろと出している様の、なんと滑稽なことか。友人達はさも当たり前のようにアイスクリームとコーンをバランスよく食べている。違和感などない。諦めた私はまたパサパサとしたコーンだけを最後に食べる羽目になった。

 帰り道、私は友人に訊ねた。なぜそのように上手く食べることができるのか、コツでもあるのか、と。予想通り友人の答えはこうだ。「そんなの簡単だよ、普通に食べているだけ。」

 

 わたしは友人達が「普通に」していることを普通には出来ないことが多い。例えば、人と会話をする時の目線は、喋る速さは、手の動きは、意識をした途端全てが崩れてゆく。普通とはなんなのか。分からないわたしは周りを見渡し真似をする。だから返事が、行動が、人より一瞬遅れることがある。一瞬、1度瞬きをする間でもその差が自然と不自然を分断する。自然に見えていても自然ではない。ひとが無意識にできることを意識しないとできないなら、いくら似ていてもそれは自然ではない。

 私はいつまでたってもコーンに乗ったアイスクリームを普通に食べることはできないのだ。